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稲枝の押入れ

いなえが適当なことを書いては、しまっておく場所

知識というものや学問というものに対する姿勢

突然だが、僕は学問を修めている人を尊敬している。その知識には経済的にも非常に価値があると考えているし、それを大いに使ってくれると良いなと考えている。もっと言うならば、学問とはそれを1人の人間の中に入れることで有機的に結びついて、情報としては本に書かれているものと同じだとしても、実用性からしてその価値は全く異なるものだと考えている。つまり、学問はそれを理解する人が文書に残した物よりも、学問を理解している人の方がよっぽど高価値なものだと思っている。

殴り書きで文章を書いていくので自分の言いたいことが言えるかわからないがそこはご容赦頂きたい。そもそも上の前置きも必要なのかよくわからない。

言いたいことは実はかなり沢山あるのだが、今回はそのうちの1つとしてこれら学問やその要素をなす知識についての姿勢について少し思う事があったのでその話をしたい。

最初に念を押しておきたいのだが、当然ながらこれは僕の思考だ。僕は自分でも認識するくらいに学問至上主義的なところがある。その点について相容れないかも知れない。 また、僕は「こうあるべきではないか」という意図でこれから論を進めていくことになるが、これは別に「こうしろ」だとか「こうでないからお前はダメだ」と言うものではない。ここから書かれるのは、僕が僕の思考で物事を考えた結果導かれる帰結だ。それは僕の思考で物事を考えるという過程を踏んでいるのだから当然にあなたのものと完全に同一であることなどはないだろう。 ただ、これらの違いや差を認識した上で思考をするということが大切なのじゃないかと僕は思っている(メタいようだがこれもあくまで僕が思っているだけだ)。だからこそ、僕は最近良く他人の発言を見て思うところについて自らも思考して発信してみようかと思い至った。

まずそもそも僕が一番感じているのは、学問に対する尊敬が無いのではないかということだ。これだとかなり精神論チックになってしまうので、もう少し掘り下げよう。僕が学問に対する尊敬が無いと言っているのは、学問やそれを修めることを軽視し過ぎではないかということだ。

最近はインターネットで調べられない事は少なくなってきた。スマホの普及でこれが更に押し進められているように感じる。それにともなって、知識というものの持つ価値を感じなくなってきているのではないだろうか。わからないことがあれば調べれば知ることが出来る。そういう環境におかれて、知識というものが当たり前になっている。

こういった背景のもとで一部の知識について適当な発言が飛び出すようになった。ネットを学者がよく使っている界隈は問題ないのだが、専門家が実務で忙しくネットを見ている暇がなかったりすると、その界隈の知識について適当な発言を訂正する人がいない。よってそういった発言が拡散力の高いネットで繰り返される、という形を取っている。まだ調べて得た知識ならマシな方で、よく知りもしないが自分の"常識"から考えてこうだろうという考えを学問の威光を背に声高に叫ぶケースさえある。

これは危惧すべき事だろう。誤った知識は拡散するとその訂正が非常に困難になる。誤った知識を発信した人に解説をして、だから違うよといって納得してもらったところで、その人の発信を見た言うなれば受信者はその受け取った誤った情報を元に何か行動をしてしまい、害を受けたり与えたりするかもしれない。その害は経済的なものから、社会的、身体的なものにまで及び得るだろう。発信者が誤った知識について訂正する発信をしたとしても、その発信が届くかはわからない。人は正しいものではなく、印象的なものを見ているからだ。そして、人にとって印象的なものとは最初の情報だ。最初の情報が入ってしまったら後の修正情報については見えなくなってしまう。若しくは、見えていても初めに知ったからという理由だけで、特に根拠もなく自分の持っている情報が正しいと思い込み、修正情報をはねのけてしまうのだ。

具体的に僕がよく目にするのが(若しくは僕の性質上目につくのが、かもしれないが)、法律に関するものだ。ネットで条文を探してきて呟いていたりするのだが、大抵がトンデモ解釈で、その他の条文や判例学説との関係を無視した凄いものだった。法律の運用がどうなされているのかという前提知識さえない様なものも多く、これで誤解して誰かが捕まったりでもしたらどうするんだろうな、と思って見ていた。

法律はそれに関して幾つか学問として成立しているが、特に実定法学を学んでいて思うのが、法学というのは一部の理解というものはほぼありえず、必ず全体を総括的に理解した上で、その中での位置づけとしての一部の理解が必要な学問であると思う。それは法学が裁判等の実務で使われる学問であり、現実の複雑さに対応するために様々な視点を組み込むことで妥当な結論を導こうとした試行錯誤の証でもあると思う。そういう訳で、局地的な理解というのが非常に困難かつ無意味になり得る学問なのだ。また、正確でない知識について一切の意味を持たない学問でもあると思う。これは恣意的な判断を避けるためと予見可能性を担保するためかと思われるが、正直なところ断言はできない。僕は大学で法学を専攻しているが、僕はその一部しか学べていないと思っているので、先程述べた全体からその位置づけとしての一部の理解が必要な学問であるという特質上、あれこれ語ったところでそれが正しいと言い切れるだけの根拠も自信もないのだ。そしてその上で、半端な知識で誤った情報を事実のように発信しているのを見るとやるせなくもなる。この学問はそういう扱いをしてもいいと認識されているのだろうか、と。

実際に、誤った情報はそれを見た人を誤解させるが、その全員の誤解を解くのは難しい、という上記の話を、誤った情報を拡散している人に1度したことがあったが、何も変わることはなかった。自分の中で勝手に間違った解釈をするのであれば好きにしてもらって構わないが、多人数に発信もしくは拡散するとなると前述の通りその意味は大きく変わると思うのであまり適当な解釈をしている発言等を拡散してほしくは無いのだが、まあそこは個々人の考え方なのだろう、僕も強制は出来ない。

ともあれ僕はこのような学問や知識に対する態度に非常に危機感に近い何かを感じている。 「ネットで調べてサッとわかるようなら学問としてそれを未だ研究している人達がいるというのはおかしいのではないか」という当然に行き着きそうな思考が出来ていない、というのがそのうちの1つだ。もし本当にネットの知識を少し読んだだけでその学問分野若しくは知識について習熟したのだとしたら、是非その分野の専門家になっていただきたいし、そうでないなら正確かわからない知識をさも事実のように拡散するのをやめて欲しい。

ここで注意しておきたいのは僕が「ネットで知った知識」という点よりも「軽く調べただけの知識」である点について力点をおいているということだ。ネットにはさっきも言ったように調べられないことが少なくなってきたくらいのたくさんの情報が溢れている。その情報達の中から正しいものを選び出し、全てを拾い切って理解したのだとすればそれは1つの"正しい知識"足り得るだろう。問題は知識が浅く狭いところにあるのだ。

また、この流れで言うと、ネットの知識を過信し過ぎであるように思う。これは別に「ネットはダメだ、紙をめくっていって覚えたことにこそ意味がある」と言ったエセ科学のようなことが言いたいのではなくて、その信用性の話だ。 ネットに沢山の情報があるのは、誰もがそこに書くことが出来るからで(この記事が証拠だ)、つまりは全く理解していない人間が適当な知識を書くことも出来るということだ(この記事が証拠でないことを願いたい)。それを書いた人の情報についてはその本人の自己申告を信じる他無いし、嘘を書いていてもそれを責められない。文章に責任を求められないということは、その正確性を担保しないということでもあると思う。そうなると情報の生後や取捨選択は読み手の能力に委ねられるが、これは非常に難しい。正直言って専門分野の情報なんかどれが正しくてどれが間違っているかなんてわかりやしない。 それに対して書籍(出版に際して書籍と同等の手続が踏まれているなら紙にこだわらず電子書籍でもよい)は、誰もが出版できるわけではない。印刷代や営業広告代等のコストがかかるので、売れる見込みのあるものについてのみ出版されるし、出版社のイメージを損ねぬよう、その道の権威である先生なんかに執筆を頼む。全く理解していない人間が学術書を執筆する機会なんてものはネットの場合に比べて明らかにすくなくなる。また文責が定められていたり、どこの何という何を専門とする学者が書いたのかもわかるので、その正確性が一定程度担保される。 このように比較すると、ネットの情報というのは非常に扱いの難しいものであることがわかる。もちろんネットにある情報の全部が間違っているわけではないし、僕個人が見る分には正しいことのほうが多いと思う。しかし、それが正しいのかはわからないのでしっかり見定めなければならない。しかし、それもないままに学問や知識を扱っているのをたまに見かける。これはとても危険だと思う。

みんなが学問や知識について相応の敬意を払い、フリーのネットの情報の難しさを理解し、不正確な情報を事実として拡散することの危険性を認識してくれたら、おそらく僕にとっては住みやすくなるんだろうな、と思う。