人文社会科学という学問分野について
導入
先日、TLで少し話があがっていた(というか僕が勝手に語っていた?)ので折角と思って記事にする。
そもそもの話なのだが、僕は時々人文社会科学と言われるような所謂「文系学問」というものを軽視される事があるように思う。(実は結構この「文系」というくくりも好きじゃないのだが、ここでは触れず伝わりやすさを優先しようと思う)
「『文系学問』が軽視されることがある」というのは事実ではなく感想というか、僕がそう思っているだけであって、もしも「そんなことないよ!」という方が居たら僕は「なるほど、あなたはそう思っている様なので、わざわざこんな議論や主張に首を突っ込まずともいいですよ」で終わってしまう話なので、多分これを読む必要はない。
僕は主にこの話を「人文社会科学が軽視される傾向がある」(若しくはもう少し絞って「人文科学もしくは社会科学が軽視される傾向がある」)と思っている人のうち、特に「人文社会科学は軽視されてしかるべきだ」とか、「人文社会科学は自然科学に劣ったモノだ」といった風に、その軽視に対して肯定的な意見を持っている方々に見て欲しいと思って書いている。
人文社会科学とは
さて、読み始めた人達の一部の人達のうちに人文社会科学ってそもそもなんよ、みたいな人がいるかもしれないので、その辺の説明をしたいのだけど、詳しく話すと(僕が文を短くまとめるのが下手くそということもあって)長くなりそうなので、ここでは割愛させて頂く。恐らくGoogle先生やWikipedia先生に聞いたら概観はつかめるかな、と思う。
また、イメージをつかむのにこちらの記事にある画像等がわかりやすい気がしたので参考にすると良いかもしれない。
本題
概要
まず結局のところ僕が言いたいことを、僕のツイートから直接引っ張ってきたのでご覧いただきたい。
社会から人文科学が理解されにくい(と僕は思ってるんだけど)のは、その成果が常識となってしまうところだよなと常々思っている。当たり前だからそれを理論立てて言われても「あ、はい」ってなったりしちゃうんだよね。
それでもそこに至るプロセスに興味がある人が一定数いて、人文社会科学を支えてるんだと思うんだけど、この構図、ゲームエンジンを前にした時に「ヤッターゲーム作れる!!」となるか「どうやって動いてるんだろう?」となるかの違いに似てる気がする
あと、人文社会科学は「不変真理や事実を探求する学問でない」って所を理由に自然科学より劣ったモノとみられることがある気もするんだけど、そこに関しては僕は主観の話かなと思う(学問として体型立てた上で役に立てば良いのか、それとも不変の事実でないといけないのかみたいな
あとそもそも自然科学でも今わかってる事実(法則とか)って「今事実だと思ってること」でしかないよねって話もあったりするしなかなか難しいよなと思う。自然科学がより発展したら今の科学も似非になりうるかなって。そういう意味で不変性の観点で言い合いするとしたら線引は難しそうだなと思う。
現実とか社会をみる定規とか分度器みたいなものを提供してくれるのが人文社会科学かなという感じがする(ので社会に合わせて内容も変わる)。僕はそれも大切だと思うんだけど、不変の(普遍の)真理の追求こそが学問として正統だと言う人の「気持ち」もわからないではない。
ということで伝わったのかわからないのだけど、取り敢えずそんな感じのことが言いたいんだよという事で、もう少し細かく補足等をしながらみていきたい。
人文社会科学が「役立って」いないように見える
「価値=有益性」論
無意識のうちにかも知れないが、学問の価値のようなモノを考える時にその有益性を見る人が多いと思う。
実際に役に立つのかどうか、というのは即物的だが、非常にわかりやすい話で、わかりやすいということは多くの人はそのわかりやすい基準で直感的にその学問の価値を判断するのだろう。人間は理解をするのにコストがかからない情報ほど進んで取り入れる傾向にある。
さて、それを前提とした上で、人文社会科学は恐らく「役に立たない」学問としてみられがちなのだろうと思う。それは何故か、というと僕は先で述べたようにその成果が「常識」となってしまうからだとおもっている。
既に公知となっている事による有益性の判断の変化
人文社会科学は、大雑把に言うと人の在り方や社会の在り方を研究対象とする学問だ。すると、その研究の成果等は人や社会の在り方についてのものとなる。古典的なところに立ち返ると、民主主義という概念等がその成果ではないだろうか。これは今となっては当たり前のものであって、何も凄いことではない。(特に「民主主義国家」と銘打つ国家に生まれた以上は)生まれながらにその中にいるし、その中で育っていく。自分にとって当然の枠組みとして受け入れられる事が多いし、頭をひねらずともそこにシステムとして存在するので、考え出さずとも受け入れるだけで良い。
この様に、人文社会科学の成果は社会の中に溶け込んでいく。特に人文社会科学で研究対象とされるような大きな分野については、過去の成果が社会に取り入れられ、僕達にとって「当たり前」のものとなってしまっていることが多い。
人間、「当たり前」というモノにありがたみを感じない。同じだけの利益を得ていても、ある時その利益を初めて受けるようになるのと、ずっとその利益を受けていたのとでは、その利益の感じ方が違うのだろう。(効用の逓減にも近しい話かな?と思うのだけど、自分は経済学は詳しくないのでこの話には踏み込まないでおく)
「失ってからその大切さに気づく」とよく言うように、人間は得ている利益を差分で認識しがちなのだ。得ている利益の量ではなく、利益の量の増減で利益を感じるのだろう。車を運転している時に速度よりも加速度を知覚するのに似ている。速度が上がっている間はなんだかすごい速度で走っている気がするけれど、加速が止まれば(例えそれが5分前の時速30kmから時速60kmになっていたとしても)早くなったことに気付き辛いのだ。(だから車には速度を示してくれる計器がついている)
そうなると、「当たり前」のことに対して一つ一つ順を追って確かめていったりするような人文社会科学が、直接的に利益の増減を感じられないので、「役に立たない」学問に見えてくるのだ。
成果が出るまでの試行錯誤は受け取る側は見えない
また、仮に新しく成果が出たとしても、そこに利益の増減が感じにくいというのもあるのではないかと思う。人文社会科学の成果というのは、この世にある真実の発見ではない。言って見るならば、この世を見る際の「視点」の獲得のようなものなのである。
新たな「視点」にたどり着くのは難しい。しかし一度その「視点」を受け入れてしまえば、その「視点」はなんら新しいものではなくなる。つまり答えを見てからそこまでの道筋を見ると一本道に見えてしまうのだ。そして、その一本道を辿ることが非常に簡単に見える。
しかし、その「視点」が見つかる前は、人々はその「視点」がどこにあるか知らないばかりか、そもそもその「視点」があるかどうかもわからない。今自らの持つ「視点」から、至るべき「視点」に向けて、無数ある道をひたすら思考する。ある道がそもそもどこかの段階で間違っているかもしれないし、ある分岐路でどちらかを選ぶともうどの新しい「視点」にもつながっていないかもしれない。そういった広大な中で何処かにある「視点」を探し続けるのだ。そして、「視点」が見つかると、自分が探し回った道の事については述べず、今自分の持つ「視点」から、新しく見つけた「視点」への道を成果として示す。それは、見る人によっては元からそこにのみ道があったかの様に映るだろう。
そうすると、新たな「視点」の獲得は「当たり前」の事を成果化したものに見える。成果を評価するためにはその「視点」がどういったものか知ることが必要だが、「視点」は知ってしまうと「当たり前」のものになってしまう。「当たり前」のものを成果として出されても利益が増したように見えないので、「役に立って」いるように見えない。よって有益な学問には見えない、と思う人が出て来る、という流れである。
しかし、そうではない、と僕は思う。「人は平等」等の「当たり前」が当たり前でない時代があった。おそらく今も、将来では「当たり前」のことが当たり前の事ではなくそこらじゅうにあるのだろうと思う。過去にはなかった「当たり前」を見つけ出し(もしくは過去の別の「当たり前」を捨て去り)、新しい視点として広げた人がいたように、おそらくこれからもそういう営みが行われていく必要があるだろう。社会は変わっていくのに、同じところからずっと見ているのでは、いずれ見えない影の部分が大きくなっていってしまう。それによって不当な扱いを受けたりする人がいるかもしれない。そういう事を防げるという事はもっと大きな意味を持っていると僕は思う。
そして1つ補足しておきたいが、僕は「人文社会科学において新しい視点の獲得にはたいへん大きな労力がかかるから重要だ」等と考えては居ない。どれだけ大変な事であっても、社会の役に立たなければ少なくとも社会的に意味はないと思う。学問は、その労力からのみで評価されるべきではないと僕は思っている。
人文社会科学は普遍の真理を探求する学問ではない
人文社会科学の研究対象
もう一つ、学問の価値を判断する時に、その学問が普遍の真理の探求を目的とする学問であるか、もしくは成果として普遍の真理が得られる学問であるか、という点を重視する人がいる。
自然科学が一般には普遍の真理の探求を目的としているのに対し、人文社会科学はそうではない。
先程も述べたように人文社会科学は人間や社会といったものを対象とする学問であり、その目的は一般に普遍の真理の探求というものではなく、その人間や社会といったものに法則性を見出したりグループ化をしたりという、視点の獲得が目的となっている。
つまりは、対象となる人間や社会がガラッと変わってしまえばある研究成果は直接的な意味は失ってしまう事が多い。
無人島のたとえ
良く見る例えでいうと、法学や経済学を幾らやっても無人島では役に立たない、というのがある。化学や農学を始め、自然科学は無人島でも役立てられるが、法学者や経済学者はそれを指を咥えてみているしか無い、というものである。
おそらくこの例えを言い出した人は特に経済学についてお金儲けをする学問か何かだと勘違いしているのだろう。それぞれの学問を少しでもやったことがある人達からしたらそもそもこの例えに反論があると思うが、今回はそこには立ち入らない事にする。
さて、人文社会科学を軽視する人達の一部は例えばこの無人島の例等を出して、「それに比べて自然科学はどこでも同じく通じるのでより優れている」だとか、「人文社会科学はだから価値がない」だとかと言う。
しかし、僕はこれについてはそうではないと思う。
まずそもそも、人文社会科学を見る時に自然科学等の他の学問領域を指してどちらが優れているだのと議論する事自体がナンセンスだと思う。職業に貴賎なし、ではないが、僕は学問に貴賎なしという言葉を使いたい。それぞれの学問がそれぞれの領域でより優れたもので有ることに意味を置くとしても、それらの領域をまたいでわざわざ他の領域より自らが優れているとするのは無意味だ。そしてそもそも、それらの価値を計る統一的な尺度など存在しはしないだろう。それなのに一部分を取り出して評価して、その評価を大局的に適用する様な論は筋が通らないと僕は思う。そもそも学問に価値を観念できるのか、という点について本当はもう少し考えたいが、出来るとしても、この考えについてはおかしいだろうと僕は思う。
また、自然科学は言ってみれば自然の中の法則を見つけ出そうとする学問であり、人文社会科学は人や社会の中に法則を見つけ出そうとする学問だ。その性質上、人や社会の存在しない無人島というフィールドを選んで人文社会科学の価値を考えようというのは無理があるのではないだろうか。
真理の探求か真理の獲得か
そして、もう一つ思うことがある。「普遍の真理の探求を目的とする学問でない」として人文社会科学を軽視するのではなく、「普遍の真理を得る学問でない」として人文社会科学を軽視する人が居るのだが、それには少し無理がないか、ということだ。つまりはどういうことかというと、そのような人達は自然科学は普遍の真理を得る学問であり、その点で優位性があると言いたいわけである。
この点について僕は、自然科学は普遍の真理の探求をする学問だとは思っているが、普遍の真理を得る学問だとは必ずしも考えていない。自然科学が得ている成果と呼ぶべきものたちだって、僕は「現時点では普遍の真理に見えるもの」以上のものではないと思うのだ。
例えば公理が本当に正しいかはわからないし、仮説から実験を経て得られた知識だって、本当にそれが普遍の真理かを証明する手立てはない。屁理屈のようだが、実際に普遍の真理だと思われていたものがひっくり返った事だってあった。
例外がないことの証明をそういった所まで求めるのは悪魔の証明ではないかと思うけれど、だからこそ、普遍の真理を得ているとは言えないのではないか、と思う。
自然科学は、自然に属するもろもろの対象を取り扱い、その法則性を明らかにしようとする学問であり、その法則性を明らかにする学問であるけれど、それが普遍の真理かどうかという話とは別だろうと僕は思う。普遍の真理に近づくために(普遍の真理があるのか、みたいな哲学の話は全く詳しくないのでこれも触れないで)その思慮の及ぶ範囲での法則性を明らかにする学問を、普遍の真理を得る学問と言ってしまうのは少し言い過ぎではないだろうか。
結局のところ、法則性を明らかにするというそれは所謂自然に対する視点の獲得であると思う。人文社会科学と違うのはその対象がその有り様を大きく変えるということが一般には無いことではないだろうか。
そして、どちらの視点にも言えることは、正しいと思っていたある視点が実は間違っていたということが無いという保証があるわけではないということだ。
結局、自然科学が普遍の真理を得る学問かというとそれは怪しい。もちろんこれは人文社会科学だって同じだ。一般に信じられているから普遍の真理かというと、それはわからない。よってその学問から得られるのが普遍の真理かどうか、に主眼を置くのは少しおかしいと思う。
せめて目的を何としているか、なら少し話は変わってくるかもしれない。真理の探求を目的としている、という事そのものは嘘ではないだろう。だが加えて、何を目的としているか、でその学問の優劣をつける事が出来るのかという事については僕は疑問に思う。そこに意味はあるのか、というのはあるし、目的に価値が観念できるのか、という話は極めて難しい。
結局見方の話
中身が気になる?
さて、僕はここまで述べたように人文社会科学を劣ったものとは考えていない。自然科学も含め、全ての学問という学問に携わっている人達を等しく尊敬している。
そして、人文社会科学を軽視している人達もそう考えてくれるようになったら良いなと思っている。
さっき概要で引用した中にこういったものがあった。
それでもそこに至るプロセスに興味がある人が一定数いて、人文社会科学を支えてるんだと思うんだけど、この構図、ゲームエンジンを前にした時に「ヤッターゲーム作れる!!」となるか「どうやって動いてるんだろう?」となるかの違いに似てる気がする
「そこに至るプロセス」の「そこ」というのは常識となってしまった人文社会科学の成果とでも言うべきもの、を指している。
ゲームエンジンとは、ゲームを作る際に必要な各種機能を比較的簡易な形で提供してくれるものだ。これを使ってゲームを作るのに、このゲームエンジンがどうやって作られているのかを隅から隅まで把握する必要はない。言われたとおりに使っていればゲームは作れる。
自動車なんかもそうだろう。エンジンからラジエーターからタイヤから何から何までその仕組を詳しく把握している人はそうそういないだろう。でも、アクセルを踏んだら進んで、ブレーキを踏んだら止まる、これに加えて幾つかのことを知っていれば問題なく運転できる。*1
では、自動車を作るとなったらどうだろう?若しくは自動車を改良したり、全く新しいシステムを使った自動車を開発する事を考えたら?勿論実際には専門家が分業もするのだろうけど、全体について詳しく把握している人は必要だろう。そういう人がいないと自動車はいつまでも今のままだ。いつまでたってもリッターあたりの走行距離は変わらないし、自動運転システムなんかがつくことも未来永劫ない。
僕は人文社会科学についても同じようなものなのではないかと思う。民主主義がどういった経緯で出てきたのか、そんなことは知らなくても民主主義の大枠は理解できる。しかし民主主義が行き詰まりを見せたとしてそれに変わる新しいパラダイム*2が必要になったとき、大枠で理解しているだけの人にそれを考えることが出来るのだろうか?僕は出来ないと思う。
そこで僕達が常識だと思っている、「当たり前」化してしまっている、人文社会科学の成果について、1つずつ紐解いて、誰かが考え続けていないといけない。人や社会は変わっていくのだから。
そうなった時にその常識が常識になったプロセスに興味がある人達がその役目を担うのではないかと思う。つまり何が言いたいかって、僕はそもそも最初に出てきていた役に立たないを正面から否定したい訳だ。
「自動車の中身の仕組みなんて詳しく知らなくたって走れるじゃん」と言われたら確かにそうだと思う。でも、「だから自動車の中身の仕組みについて学ぶのは無駄だ」と言われたらそれは違うと思う。
同じように「人文社会科学なんて知らなくたって生きていけるじゃん」と言われたら確かにそうだと思う。でも、「だから人文社会科学について学ぶのは無駄だ」と言われたらそれは違うと思う。
まとめ
初めに僕が言おうとしていたことと、書き進めるうちに結局違うことを言っているところもある気がするけれど、僕が言いたいのはこんなところだった。ひたすらに書き連ねて言ったので読み辛かったと思うが、ここまで読んでいただいた事に感謝したい。
結局のところ、僕は自分が法学を専攻しているので、人文社会科学が劣っていると言われて焦りのようなものを感じていたのかもしれない。人文社会科学への軽視を見て、それを学ぶ自らへの軽視を恐れたのだと思う。
しかしこう書ききって割とスッキリした心境で書くと、結局のところ自然科学であれ人文社会科学であれ、その習熟によってその(所謂社会的「価値」としての)有益性は決まってくるのだから、自分が出来ることをすれば良いのだろうなという思いでいる。
また、僕は人文社会科学を勝手に代表し、知っているかのような顔で人文社会科学について散々語ってきたが、勿論専攻は法学で、その法学さえまともに理解できているかわからない。よって、人文社会科学を専攻している人からもそこは違うぞと思うところがあるかもしれない。
自然科学を専攻している人からはより多くの指摘がありそうな気がする。
是非そういったことがあれば教えていただきたい。例えそもそも人文社会科学が劣っている、という主張であってもだ。僕の感情としてはそういったものは否定したいのだけれど、もし筋が通っていて否定のしようがなければ受け入れざるを得ないだろうし、そうしたらまた新しい「視点」が得られるかもしれない。理論的でない批判はやめていただきたいが、そうでなければ是非皆さんの意見をお伺いしたい。
最後に、二度目だがここまで読んでいただいた事に感謝したい。これが何かあなたの為になればと思う次第である。