稲枝の押入れ

いなえが適当なことを書いては、しまっておく場所

「いじめ」について考える時の前提のお話

少し前に大きなニュースとして上がったりしていた「いじめ」に関する事件、それらについて語られる文脈で、その個別具体的な事件についてだけでなく、「いじめ」一般の話がなされるのを見かける。

全てに当てはまるわけではないとしても、「いじめ」というものについて考えるにおいて、一般的な「いじめ論」というのはそれなりの意味はあると思う。

勿論ネット上の匿名同士でボソボソ言ってるだけで問題が直接なくなることは無いだろうが、そもそも議論にならなくなったらそれは「問題」ではなくなってしまう。いじめはいけないことだ、という言うだけなら簡単のこの当たり前のことが、当たり前でなくなってしまう。それはマズい。不当な扱いというものを人一倍嫌う僕個人の感情としては、そんなのはとてもじゃないが許せないし、許されるものじゃ無い、と思う。

さて、というわけでいじめの一般論について議論すること自体には僕はさほどの疑問は感じてい無い。ただし、その議論の内容については度々疑問に思うことがある。

例えば、そのいじめについて、責任の所在が議論される。「いじめた側が悪い」「いじめた側にも何か事情があったかもしれない」「いじめられた側にも責任はあるのでは無いか」「いじめの原因はいじめられた側にもある」。こういった感じで議論をしているのを見ると、まず僕は責任と原因を切り分けるべきではないか、と考える。

「いじめられた側にもいじめの原因があるので責任はいじめられた側にもある」というのは、つまりは「いじめられる理由」とでもいう原因のようなものがあれば、いじめたとしてもそのいじめの責任の一端をいじめられた側に負わせて、いじめた側はその責任を一部言い逃れする事が出来る、といっているのと同じことである。

僕はこれは問題であると思う。こういう構造が認められてしまうと、ただでさえ報復等が怖くていじめを他人に相談できないいじめられた人が、「自分にもその責任の一端があるとして責められるかもしれない」とさらに相談をすることを萎縮させてしまう。

それとは反対に心の弱い人がいじめに踏み切るハードルを下げてしまう。自分だけが悪いのではないのだ、と思うと心の弱い人はそこに逃げてしまいかねない。それでは誰もが不幸になるだけだ。

そしてそもそも、僕はいじめられた側に一切の責任はないと思う。

原因があるから責任もある、というのは論が飛躍しすぎていると思う。これは相当因果関係の話になるので詳しくは割愛するが、次のような例がある。

結婚して幸せ太りした夫のAさんがダイエットに運動を始めようとしていたところ、友人に誘われたので山登りを始めた。やってみると楽しく、Aさんはすっかりハマってしまった。翌年とある山に登っている最中に転落事故にあい、Aさんは死亡した。

この例では、例えばAさんは結婚しなければ太らなかったからダイエットに運動を始めようとなんてしなかったかも知れないし、友人が誘わなければ山登りではなくフットサルを始めていたかもしれない。そうすればAさんは死ななかったかもしれない。

こう見ると、Aさんが死亡する原因として遠いにしたって、Aさんの奥さんが結婚したという行為と、Aさんの友人が山登りに誘ったという行為が挙げられる。

では、奥さんと友人にAさんが死んでしまった事について責任があるのだろうか?

僕は少なくともそうは思わない。

原因があったからといって直ぐに責任に飛びつくのは合理的でないと思う。

原因と責任は分離して考えるべきだ。

例え原因がいじめられた側にあったとしても、いじめた責任はいじめられた側には無い。

ではいじめた側にすべての責任があるのかというと難しいところではある。いじめた側も心が弱かったのだろうし、もしくはそのいじめを助長するような何かがあったのかもしれない。しかしここではその話はしない。

僕が言いたかったのは原因があったからといってそこに責任もあると安直に考えないで欲しいということ、つまり原因と責任は分離して考えよう、ということだ。

そしてもし可能なら、責任という言葉とは縁遠い形で問題の解決が図れたら良いのにな、と思うしそういったことにももっと議論が活発になればな、と思う。