稲枝の押入れ

いなえが適当なことを書いては、しまっておく場所

みんなちがってみんないい(本当か?)

すごく簡単なことだけど、人は皆違っている。生まれた時や、過ごしてきた時間や場所、その他とても多くの要素が思考や、もしかすると身体をも形作る。ある人とある人の歴史が違うから、それらの人は違う、という論だとそれはどうだか怪しい気もしてくるが(客観的体験が違うからと言って主観的体験も違うか、またそこから生じる思考も違うかというとそれを論理的に裏付けるのは難しそうだ)、少なくとも全く同じ思考が築かれるよりは皆が違っているほうがよっぽど妥当だと僕は思っている。仮に全員が違わないとしても、違う思考を持つ人がいる、というのはわかるだろう。全員が完全に同じ思考をもっているのだとしたら、通信技術はここまで発展しただろうか。考え始めると色んな矛盾が出始める。よってここでは仮に全員が違わないとしても、少なくとも全員が同じではなく、違う思考を持った人がいる、と考える。

しかし、私たちはそのことを忘れがちである。自分が特定の道を通って体得した何かについて、他者がそれを体得できないことについて疑問を抱いたり、自分が当然に理解できることが他者には理解できない時に戸惑ったりする。さらに奢りが生まれると、自分ができることについては当たり前に「みんな」が出来ることだと思い始めるのである。人に得意不得意があることを忘れたりする。例えば、コミュニケーション能力を要求されるとキレる割に、調べて問題解決する能力がない人やそうやって解決できる事を知らない人に「それくらいやれ」と断じたりする。だから世界に争いはなくならない(すぐにスケールを無駄に大きくした事を言いたがる)。

タイトルに「みんなちがってみんないい」と書いた。「みんなちがって」の部分は以上の通りだ。立証できないので仮説に過ぎないが、僕はこれについては確信している。これを忘れなければ、非常に不合理な押しつけなどはなくなるだろう。

「みんないい」の部分については更に難しい。ここで僕がいいたかったのは違いがあるということはそこが強みになりうるということだ。1次ソースが確認できないので真偽は定かではないが、任天堂の岩田前社長のものとされる言葉に

「自分の長所を見つけるには、自分が楽にできることを探すこと」

というものがある。人は苦労して何かを身に付けると、それにすごい価値があると思い込みたがる。しかし、実は自分は何気なくやってるけど他の人は結構苦労してる物があって、そういうものこそ価値を生む、という事が言いたかったとして紹介されている。

僕はこれに関してその通りだと思う。一生懸命苦労して身につけたものが無駄だと言いたいのではない。人には違いがあって、つまりは得手不得手があって然るべきだ。だから、そのことを忘れず、自分の得意を活かし、他人の不得意を慮る、そういうことが全員がうまく生きられる経済的(ここではいわゆる社会経済の経済というよりは、限られた財を適切に分配すると言ったような経済学等に使われる方の意味の経済)な方法だと思うのだ。

だから僕は題を「みんなちがってみんないい」と書いた。本当か、とつけたのは、みんないい、というわけではないからだ。違いがあることが強みになるとしても、その強みにも程度がある。そしてそれが社会にどの程度評価されるかということもものによって違う。場合によっては社会に評価されないが他人と違う事によってあることについてとても秀でているということがあるかもしれない(寸分違わず狙った場所に輪ゴムを飛ばせる、とか)。それがいいとか悪いとかは正直僕にはわからない(よって本当か?とつけた。みんなよかったら社会に苦しい人はいない)。ただ僕がいいたかったのは、人は違うから、自分にとっての当たり前を他人に押し付けてしまう前に疑おう、みたいなそういう話なのだ。

但しこれを「全員に考えてくれ」、と言うことに関しては問題がある。これは常に思考をして、最善ではなくとも改善をしていこうとする時に常にぶつかるメタな問題だ。それは「以上のことを考えながら生きる」という主張は、思考コストが高い人々への押しつけになり、それこそ人の得意不得意を考えない非合理的な押し付けになってしまうということだ。この主張は、「最善へ向けて改善をすることを目指して常に考え続けたい思考コストの低い人間」のエゴであるとも言えてしまう。コミュニケーション能力の低い人物に無理にコミュニケーションを強いることは許されるだろうか。正当化をしようとすることは出来るかもしれないが、僕はそれは良くないことだと思う。自分が支払うコストが小さいからといって、相手にも同じものを強いるのは安全圏からマウントをとっているようなものになりえないだろうか。そういったことを危惧してしまうのである。 同様に、こういった問題への思考コストが高い、ぶっちゃけていうと面倒くさいと考えている人物に、こういった意見をぶつけてこれからはこういったことを考えながら思考を改めよ、というのは良くないのではないだろうか。

だが、強制しないにしても、こういったことを誰かが言わないと気付けない、という面もあるかもしれないなと思い、思ったものをそのまま書き殴る形になったが、少し吐き出してみた。皆さんはどう思うだろうか。